浄土真宗の教えとは
浄土真宗は親鸞聖人が開顕した真実を宗(いのち)とする仏教です。
真宗において、最も大切な意味を持つものは「信心」です。「信心」とは、阿弥陀如来に目覚めた心です。阿弥陀の本願に呼び覚まされた心ともいう。真実なるもの(阿弥陀如来)のはたらきの中に、自己のいのちの全体が生かされているという明確な自覚でなければならない。
「自覚」とは、自分に覚めることです。「人間は、不安と苦悩から、生きている間、離れることができない者です」と覚める。自分の姿を照らし出すのが、「仏の教え」です。
私たちは、煩悩を抱え、すべてが虚偽と空虚さの中に生きている。だからこそ、人は、真実なるものを求める。「南無阿弥陀仏」という真実の言葉に出遇って、「阿弥陀仏の本願を信じ、南無阿弥陀仏と称えて生きる身に育てられる。」「私が念仏を申す時、そこに阿弥陀仏がまします」という存在証明が成立する。私自身への目覚めの一つは、「私が生きる為、肉や野菜等の他の生きもののいのちを奪い、自身の血肉化しなければならない。」
だからこそ、「あらゆるいのちと共に、浄土へ生まれなければならない」という仏の願いをわが願いとして、「往生浄土の道に立つ」という奇跡的な出来事が、自己中心にしか生きられない私の上に成り立つのです。
自分の力で、浄土へ往生できると考える人を「善人」と名付け、阿弥陀如来の愛に背く救い難い者とあわれむ。他なるはたらき(阿弥陀如来のはたらき)によって、私が阿弥陀の本願に出遇い、限りある生命を生きる者であり、悪人と目覚める時、「汝、悪人をこそ救う」と呼びかける阿弥陀仏をたのみ、依りますと自分の居場所を見出す時、いつでも、どこでも、誰でも、救われたと言い得る。
念仏という言葉は、南無阿弥陀仏と称えることです。拝むという形において、仏は仏の存在を現す。私は仏の光に包まれて、自分は自分であることができる。やり直しのきかない人生を、大切に歩むことができる。仏に助けられなければ、私は私として独り立ちできない。この因縁を明らかにするものを、「本願」というのです。
念仏すれば助かるいわれを説いたものが、本願です。因縁という言葉は、初めから離れることができないものを表す。仏は、私たちを救わなければ、仏になることはできない。阿弥陀仏の光に照らされ、自分が自分として生かさせていただくようにならなければ、証しが立たない。私たち人間は生きながらにして仏になることはとても難しいことです。
しかし「南無阿弥陀仏」と称えることで、生かされていることへの感謝を忘れずに生活することができ、亡くなった際には浄土に生まれることができるのです。浄土真宗の教えについてさらに詳しいことを知りたいという方は、宮城の寺【願立寺】までお問い合わせください。
浄土真宗は宮城で葬儀を行う【願立寺】まで -宮城で由緒ある浄土真宗の寺-
浄土真宗は宮城で葬儀を行う【願立寺】をご利用ください。宮城で浄土真宗の葬儀を行っている【願立寺】は、江戸時代中期に設立した由緒ある寺です。設立当初、海が近くにある宮城の松島には塩田(海水から塩を作る施設)が数多くありました。
【願立寺】の近くにも塩田があり、塩田の技術者の多くは浄土真宗の信徒でした。そのような理由もあり、設立して以来多くの浄土真宗信徒の心の拠り所として宮城の方々に携わってきました。
そして設立から370年以上経った今でも、【願立寺】は浄土真宗の葬儀や様々な儀式を執り行い続けております。浄土真宗ならではの厳粛な葬儀を宮城でお考えの方は、ぜひお任せください。
宮城で浄土真宗の葬儀をお考えでしたら【願立寺】へご依頼ください
宮城で浄土真宗の葬儀をお考えでしたら【願立寺】へご依頼ください。墓の建て方や副葬品、法事の理由や儀礼の意味などをご理解いただけるよう、儀式を厳粛に執り行っております。
また、ご先祖様のお墓がある菩提寺(ぼだいじ)として墓の管理や供養、ご家族の葬儀などもお任せいただけます。宮城で菩提寺をお探しの方、浄土真宗の葬儀を希望される方はぜひご相談ください。
お役立ちコラム
浄土真宗の葬儀は宮城の【願立寺】へご依頼ください
経営主体 |
宗教法人 願立寺 |
宗旨 |
浄土真宗 |
宗派 |
真宗大谷派 |
代表者 |
住職 磯崎 正信 |
住所 |
〒981-0212 宮城県宮城郡松島町磯崎字蟹松14 |
電話番号 |
022-354-3552 |
メールアドレス |
info@ganryuji.jp |
お問い合わせフォーム |
http://ganryuji.net/contact |
URL |
http://ganryuji.net |
説明 |
宮城にある浄土真宗の寺【願立寺】は、浄土真宗の葬儀などを執り行っております。宮城で葬儀をご依頼される際は、ぜひお任せください。 |